popoのブログ

超短編(ショートショート)

ニワトリが先か、卵が先か?

ある日、世界中の著名な哲学者たちが、

とある豪華な晩餐会に招かれました。

料理はどれも絶品でしたが、

メインディッシュとして運ばれてきたのは、

黄金色に輝くローストチキンと、

完璧に茹でられた半熟卵の盛り合わせでした。

 

主催者がにこやかに問いかけました。

「紳士淑女の皆様、今夜の議題は、皆様が人生で一度は考えたであろう究極の問いでございます。『ニワトリが先か、卵が先か?』この永遠のパラドックスについて、ぜひとも皆様の深い知見を拝聴したく存じます。」

 

会場は一瞬静まり返り、その後、ざわめきが起こりました。

 

プラトン風の哲学者は、「概念の完全性からすれば、ニワトリという完璧な『形相(イデア)』がまず存在し、そこからその不完全な模倣である卵が生み出されたと考えるべきである。つまり、ニワトリが先だ。」と厳かに述べました。

 

アリストテレス風の哲学者は、「いや、待て。ニワトリはニワトリとして生まれるわけではない。必ず卵から孵化する。存在論的に見れば、卵がなければニワトリは存在しえない。したがって、卵が先だ。」と反論しました。

 

デカルト風の哲学者は、腕組みをして目を閉じ、「我思う、故にニワトリあり、あるいは卵あり… いや、これは私の存在証明とは異なる。しかし、もし思考が先に存在するとすれば、その思考によって認識されるものが先だ。そして、私は今、ニワトリと卵を同時に認識している。つまり、この問い自体が思考の限界を示しているのだ。」と、まるで独り言のように呟きました。

 

議論が白熱する中、一人の生物学者が立ち上がりました。

 

「皆様、恐縮ですが、この議論には科学的な視点が欠けているのではないでしょうか?」と彼は言いました。

 

ダーウィンの進化論によれば、生命は常に変化し、より環境に適応した形へと進化してきました。現在のニワトリも、かつてはニワトリではなかった、別の鳥から進化したものです。そのニワトリのご先祖様が産んだ卵から、初めて『ニワトリ』と呼べる特徴を持った個体が生まれたと考えられます。」

 

会場は静まり返りました。彼は続けます。

 

「つまり、遺伝子変異によって、ニワトリになる一歩手前の鳥が、その卵の中に『ニワトリの遺伝子』を持つ胚を宿した。そして、その卵から孵化したのが、最初の『ニワトリ』だったのです。そう考えると、物理的な『卵』が先に存在し、その卵から進化した『ニワトリ』が生まれた、ということになります。」

 

会場からは「おお!」という感嘆の声が上がりました。

この科学的な見解は、多くの哲学者の思考を一時停止させました。

 

しかし、そこに一人の陽気な哲学者が口を挟みました。

 

「いやいや、皆様、そんなに難しく考える必要はありませんよ!」彼は大声で笑いながら言いました。「もし私が『鶏肉』を食べたいと思ったら、まずニワトリが必要です。でも『卵料理』が食べたいなら、まず卵が必要です。つまり、その日の気分で、どちらが先か変わるのですよ!」

 

会場は爆笑に包まれました。

そのユーモラスな発言に、張り詰めていた空気が和らぎました。

 

そして、最後に、静かに瞑想していた禅僧が、ゆっくりと目を開けました。

 

「ニワトリも卵も、互いに依存し、互いを生み出す関係にある。どちらか一方がなければ、もう一方も存在しえない。始まりも終わりもない、円環の理である。この問いそのものが、私たちに『執着』を手放し、『全ては繋がっている』という真理を教えてくれているのだ。」

 

彼の言葉は、穏やかながらも深い示唆に富んでいました。

 

晩餐会は終わり、人々はそれぞれの解釈と思考を胸に家路につきました。

 

「ニワトリが先か、卵が先か?」

 

この問いは、科学、哲学、そしてユーモアや精神性といった様々な側面から、私たちに物事の本質や関係性を問いかけ続けます。

明確な答えが出ないからこそ、

私たちはこの問いに魅了され、議論し、

そして深く考えることができるのでしょう。

 

今日もまた、どこかの食卓で、誰かがこの永遠のパラドックスについて語り合っているに違いありません。そして、その議論の先に、新たな発見や理解が生まれるのかもしれないのです。