popoのブログ

超短編(ショートショート)

希望と無関心の狭間で

佐倉健、32歳。

都会の喧騒に紛れて生きる彼にとって、

満員電車と無機質なオフィスビルは日常の全てだった。

IT企業でシステム開発に携わる健は、

かつては人と関わることに喜びを感じ、

困っている人がいれば率先して手を差し伸べる青年だった。

しかし、いくつかの裏切り、一方的な期待の押し付け、

そして自分自身の親切が報われない虚しさを経験するうち、

彼の心は分厚い壁で覆われるようになった。

 

「関わらないのが一番だ」

 

それが彼の口癖になり、心で唱える呪文となった。

会社と自宅の往復。コンビニで買う食事。

SNSで他人の人生を眺めるだけの夜。

街中で困っている人がいても、見て見ぬふりをする自分がいた。

誰かの落とし物に気づいても、拾い上げる一歩が踏み出せない。

そんな自分を冷徹だと責める気持ちよりも、

面倒事を避ける安堵の方が勝っていた。

 

ある雨の日、健は駅前の郵便ポストの前で立ち止まった。

濡れたポストの足元に、茶色い封筒が落ちている。

中身が濡れないように、そっとその封筒を拾い上げると、

宛名には手書きで丁寧な字が書かれていた。

少し迷ったが、彼の脳裏に、かつて母から言われた言葉が蘇った。

 

「人のものを拾ったら、ちゃんと届けてあげなさい。」。

 

健は近くの交番へその封筒を届けた。

ただそれだけのことだ。

誰に褒められるわけでもなく、何の得にもならない。

 

交番の警察官に一礼し、踵を返そうとした時、声が聞こえた。

 

「もしかして、これを届けてくださったのはあなたですか?」

 

振り返ると、小柄な老人が優しい笑顔で立っていた。

その手には、まさしく健が届けた封筒が握られている。

老人は深々と頭を下げた。

 

「本当にありがとうございます。これは、遠方にいる孫に送る大切な手紙だったんです。もう諦めていたものですから……。本当に、本当に助かりました」

 

老人の目尻に浮かんだしわが、感謝の気持ちを物語っていた。

その笑顔は、健が長い間忘れていた、心の奥底を

じんわりと温めるような、不思議な光を放っていた。

健は「いえ、とんでもない」とだけ答えるのが精一杯だった。

 

その日以来、健の日常に少しずつ変化が訪れ始めた。

朝の通勤中、いつもと変わらぬ風景の中に、小さな違和感を覚える。

駅の階段で、重そうな荷物を抱えて困っている様子の妊婦さんがいる。

健の足は一瞬止まった。

以前なら、見て見ぬふりをして通り過ぎていたはずだ。

だが、あの老人の笑顔が脳裏をよぎる。

「もし、あの時、誰も拾ってくれなかったら……」。

 

「あの、よろしければお持ちしましょうか?」

 

その声は、自分でも驚くほどすんなりと口から出た。

妊婦さんは目を丸くした後、はにかむように微笑んだ。

「ありがとうございます!助かります!」

健は荷物を受け取り、無事に階段を上り切った。

その後の通勤電車では、

いつもはスマートフォンに視線を落としていた健が、

ふと顔を上げ、周囲の人々に目を向けていることに気づいた。

 

ある日の昼休みには、健は会社の近くにある公園で休憩していた。

いつものようにサンドイッチを食べていると、

目の前のベンチが壊れていることに気づいた。

座ろうとした人が、危うく転びそうになる。

以前の健なら、「誰か管理者が直すだろう」と一蹴していただろう。

だが、その日の健は違った。

彼は会社に戻ると、管理者に連絡し、ベンチの破損を伝えた。

数日後、ベンチは綺麗に修理されていた。

 

健の小さな親切は、やがて彼の周囲にも波紋を広げていった。

健の同僚が、彼がさりげなく困っている人を

助けている姿を目撃し、自分も行動を起こすようになった。

部署内のギスギスした雰囲気が、少しずつ和らいでいく。

 

ある週末、健はボランティア活動に参加してみることにした。

それは、地域の清掃活動だった。

最初はぎこちなかったものの、共に汗を流す中で、

参加者たちの温かい笑顔と、地域への深い愛情に触れた。

彼らが「誰かのために」という純粋な気持ちで行動している姿を見て、

健の心は完全に溶けていった。

 

活動の帰り道、健は空を見上げた。

澄み渡る青空が、以前よりもずっと明るく見えた。

あの老人の笑顔が、健の中に眠っていた

「人を信じる心」「人を愛する心」「人に尽くす心」を

呼び覚ましてくれたのだ。

 

彼は、もう無関心でいることを選ばなかった。

小さなことでも、勇気を持って

一歩踏み出すことの大切さを、身をもって知ったからだ。

 

「小さな親切を、勇気を持って」

 

心の中で繰り返すその言葉は、もはや呪文ではなく、

彼自身の、そして多くの人々に伝えたい、

温かい願いとなっていた。

 

健の日常は、静かに、しかし確かに、

光に満ちたものへと変わっていった。

そして、その光は、彼が気づかないうちに、

都会の片隅で、静かに広がり始めていたのだった。